片倉小十郎    
初代 景綱(かげつな) 弘治3年(1557)〜元和元年(1615)

 出羽国置賜郡下長井庄宮村(現長井市)で生まれる。父は神官。伊達政宗の父輝宗に認められ、徒小性(かちこしょう)として仕えたのが19歳の時。以来、独眼竜政宗の片腕として、戦国乱世の数々の合戦をともにし、伊達62万石の礎を築いた。
 景綱の数ある功績の中から特に挙げるとすれば、豊臣秀吉の小田原攻めにあたり、伊達家がその対応を巡って大きな混乱に陥った時、景綱の進言により政宗は小田原参陣を決意、伊達家の危機を見事に乗り切ることができたという話がある。
 また、景綱の名声は時の天下人の耳にも達していたようで、豊臣秀吉は田村郡5万石を与え大名に取り立てようとし、徳川家康は江戸に屋敷を与えたという。景綱は終生伊達家の一家臣であるとして辞退したが、景綱の傑出した人物像を示すエピソードである。
二代 重長(しげなが) 天正12年(1584)〜万治2年(1659)

 景綱の長子。出羽国置賜郡下長井庄宮村で生まれる。はじめ重綱(しげつな)と名乗るが、4代将軍家綱と同じ字をはばかり重長とした。
 大坂冬の陣、夏の陣に参陣。特に夏の陣では、敵方の猛将後藤又兵衛正氏と薄田隼人正兼助(すすきだはやとのしょうかねすけ)を討ち取るなど、「鬼小十郎」の名を天下に轟かせた。
 また、大坂方の真田幸村から娘の阿梅(おうめ)ほか遺児を託され保護している。阿梅は後に重長の後室となっている。
 領内支配においては、白石城下の整備を進める一方、伊達家の評定役として2代藩主忠宗の補佐にあたっている。

三代 景長(かげなが) 寛永7年(1630)〜延宝9年(1681)

 仙台郊外若林において生まれる。父は松前安広(松前藩主の子で仙台藩士)、母は喜佐(重長の娘)で片倉家の養嗣子となる。
 万治2年に家督を相続すると、翌3年には江戸小石川堀普請にて総奉行を務めた。
 寛文事件(いわゆる伊達騒動)の際、幕府の命により藩の奉行(家老)として活躍し、事件の処理と動揺する領内の鎮静化に大きな功があった。
 景長の寛文事件の処理と、景綱の小田原参陣の進言、重長の大坂の陣における武功とあわせ、「片倉家の三功」といわれている。
 現在の片倉家愛宕山廟所は延宝8年(1680)に景長が定めたもので、景綱、重長の墓所を移葬し、以降10代宗景まで代々の城主が眠っている。
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