ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

検断屋敷

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月3日更新

上戸沢町と検断木村家の歴史的背景

 上戸沢の町は、近世、江戸時代を通じ「山中七ヶ宿通」と言われ、奥羽13名の大名が往来した、七ヶ所の宿駅の一つであり、木村家は代々そこの検断役を勤めた家である。
 上戸沢の町は、少数の仙台藩の御百姓と、その他の多数の片倉家の不断組み、足軽組と併せて30戸前後の住人で構成され、これら三味一体となって伝馬、輸送の業務に当たって来た。
 検断は、仙台藩においては町場に置かれ、伝馬をはじめ、宿駅関係の一切の仕事を取り締まり、統括する重要な職務であった。また、上戸沢の町は、本格的な大名の宿泊する本陣は置かれなかったが、木村家は、本陣に準ずる宿泊、休憩所としての役割をもたされていたし、町の伝馬問屋の仕事も兼ねていた。居宅であると同時に検断、問屋の役宅であった。更に大名やその家族たちの宿泊、休息の場ともなり、その時の関札が多数残されている。

復原・修復後の検断屋敷の写真  

修復後の検断屋敷の家構

修理の概要

  • 構造形式:木造、平屋建(ひらやだて)、直ご屋(すごや)、寄棟造(よせむねづくり)、茅葺(かやぶき)
  • 規模:客座敷部と居宅部から成り、梁間を異にする。
    桁間 10.5間(19.544m)
    梁間 客座敷部 5.0間(9.090m)
        居宅部 5.5間(9.938m)

 この建物は、平成5年まで白石市小原の上戸沢に所在した旧検断屋敷、木村家の主屋を移築復原したものである。江戸時代~明治初年を通じて、一部突出部を付けて、曲がり屋の形を示す時期もあったが、平成5年3月、市文化財指定直後である解体調査時点、即ち、直屋形式を基に、努めて古い形に復原・修復された。  

検断木村家の由緒

 歴代木村家の履歴を記した「先祖代勤功留」が残っている。木村家は、初代の惣兵衛から一〇代の三郎兵の明治維新まで、代々世襲で検断役を務めている。

初代惣兵衛寛永元年(1624)~20年間勤士
二代惣輔正保元年(1644)~19年間勤士
三代太郎吉寛文3年(1663)~33年間勤士
四代太郎右衛門元禄9年(1696)~21年間勤士
五代三郎兵衛、後に太郎右衛門と改名享保2年 (1717)~23年間勤士
六代源七郎、後に源太左衛門と改名元文5年(1740)~14年間勤士
七代惣七、後に三郎兵衛と改名宝暦4年(1754)~38年間勤士
八代源七郎、後に三郎兵衛と改名寛政3年(1791)~29年間勤士
九代太郎右衛門文政3年(1820)~21年間勤士
十代三郎兵、後に三郎平と改名天保12年(1841)~明治維新まで約30年間勤士

元禄12年より上戸沢町と宿町が改正された。
以前は上戸沢を戸沢新町、下戸沢を本戸沢町と称した。

移築前の旧検断屋敷の写真  

県指定有形文化財

 平成15年3月、江戸中期とされる創建当時の部材を活用し、地元の材木岩公園内に移築復原した。宿場町の象徴だった屋敷を忠実に復原し、極めて貴重な建築様式を残していることが評価され、平成16年3月30日県指定有形文化財に指定されている。

特徴点

 上戸沢の町は南が高く、北が低い。検断屋敷もその地形上の影響もあり、南側が高位、北側が低位となる。即ち、南側に客座敷部を配し、北側に居宅部を配する形となっていた。
 上戸沢の町では、街道に面した軒を一様にはね出して「せがい」造りとし、開口部は、しとみ戸、出格子、まいら戸、腰高障子を用い、座敷部を上手の位置に、土間庭を下手に配して、町並全体に秩序感を与えている。この検断屋敷も例外ではなく、むしろ古くからその典型として存在して来た。
 規模、形状の面で、上手に当たる客座敷と居宅に分けられるが、木村家の主な間取り構成は次のとおり。

  • 座敷部
    「とこのま」 表座敷で本陣入りした正客の居間
    「よじょう」 次の間
    「こうしのま」 控えの間で付き人、家来衆の部屋に当てられたと思われる。
    「げんかんまえ」 「げんかんまえ」として独立し、客人専用の玄関を設けている。
    「なかのま」 客賓休息時の警護用の部屋とも言われるが、主人の居宅ないし寝室として、また役宅としての執務室を兼ねた、とも見られる。
  • 居宅部
     居宅部を構成する「みせ」、「なんど」、「ひらき」、「おかみ」、「うちにわ」の中で、中心となるのは、「おかみ」である。主人および家族の日常生活の場である。「みせ」は、検断・問屋業務を行う仕事場であり、帳場であった。


検断屋敷見取り図

木村家の古文書

 木村家の古文書は、木村家住宅を解体したときにはずされた襖(ふすま)から発見されました。昔はいらなくなった紙を襖紙の下に張る裏張りとしてよく利用していたので、このような形で古文書が発見されるのは珍しいことではありませんでした。しかし、貼り付けられた紙を一枚一枚はがして解読した結果、これらの古文書からこれまでに知られていなかった様々なことがわかってきました。
 そのひとつとしてあげられるのが『折り紙の離縁状』と呼ばれている文書の存在です。ふつう離縁状は『三くだり半(三行半)』とも言われるように短いものが一般的ですが、今回発見された離縁状は14行にもなる大変長いものです。また、この離縁状は妻側から聟(むこ)養子にあてたものであり、藩政時代の女性の地位を検証する上で重要な史料となっています。
 また、その他の文書からは庶民や商人が旅をするときに必要だった手続きなどについてうかがい知ることができ、当時の交通や運送などを考える上で貴重な史料です。

木村家の古文書の写真

木村家の関札

 木村家には古文書のほかにも検断にまつわる色々なものが大切に保管されていました。関札(せきふだ)もその一つです。
 関札は大名が参勤交代などで七ヶ宿街道を通ったときに、木村家で休憩をとった場合などにかかげられたものです。これは『げんかんまえ』と呼ばれる部屋の長押(なげし)などにならべて残されていました。
 これまでに確認されている関札の数は7枚で、それらには下記のように記されていました。

 これらの内容から、木村家では大名のほか、なんらかの原因で亡くなった人の柩(ひつぎ)を故郷に送る道中での休憩所としても利用されていたことが分かります。
「5月3日   六郷佐渡守 休」
「3月13日   秋田侍従娘 休」
「佐竹石見   寓」
「10月14日   秋田故少将柩宿」
「4月18日   荘内故少将柩 休」
(注)ほか2枚は判読不能
木村家の関札の写真

建築年代

 平成5年の解体・調査によっても、直接創建年代を示す確証は得られなかったが、その間取り、架構技法、外観および内部の意匠、材質の腐朽度などから推して、江戸中期頃の建築と推測される。
 また、解体後、木村家の仏壇の戸裏に墨書が発見され、それによると仏壇の製作年時が、享保20年(1735)9月とある。
 そのまま建築の創建時を示すものでないが、創建時に関する重要な傍証の一つとしても参考にすべきであろう。

利用案内

  • 会館時間:9時~16時30分
  • 休館日:12月1日~翌年2月28日まで
  • 入館料:無料(検断屋敷を占有して使用する場合は除きます)
  • アクセス:東北自動車道白石ICから車で30分東北本線白石駅から車で20分

検断屋敷の地図